【画像使用許諾あり】全アクタージュファンに捧ぐ。「アクタージュ Act-age」の舞台俳優編をプロが徹底解説。

スタッフの竹森です。これまでの二つのブログは、

第一弾 主人公「夜凪景」について

【続】ジャンプの「アクタージュ act-age」の映画撮影編までをプロの俳優に大真面目に解説、考察してもらった

第二弾 映画編までの解説

【続】ジャンプの「アクタージュ act-age」の映画撮影編までをプロの俳優に大真面目に解説、考察してもらった

そして、とうとう第三弾、舞台俳優編です。

しかもこの舞台俳優編について、なんと今回一回限りですが、アクタージュの編集の村越様から、画像使用の許諾をいただきました!!僕自身、かなり驚きました。

「プロの方にこうして読んでいただけること自体が大変光栄なことですので、 一度きりの特例で許可を出させて頂きます。 」

ということで、今回だけ、特別に画像を付けて解説です!!

今回は4巻~本誌にかけての話が中心なので、単行本派の方はネタバレにご注意ください。

・アクタージュ銀河鉄道の夜編のキャラクターについて、現役舞台俳優が語る。

<目次>

登場するキャラについて(舞台俳優編)

・巌 裕次郎
・明神 阿良也
・星 アキラ
・青田 亀太郎
・三坂 七生

舞台俳優編についての解説

1.役者は何をもってプロとするか
2.試される即興芝居
3.役の掘り下げと表現することについて
4.星アキラは歓迎されない
5.夜凪景が悩む、「表現力」「役作り」
6.役作りのためなら、どんなことでもする明神阿良也
7.周囲の凄まじさを見て意気消沈する二人
8.役者が「化ける」とは
9.役者ほど自由な職業はない
10.「俺が演出家で、お前が役者だからだ」
11.エゴイストとして
12.「これが幸せか」

最後にメンターの方々からの感想

今回解説してくれるのは、前回から引き続きこちらの3人です。

角間進

劇団青俳出身。放浪記で森光子さんと10年以上共演。かつての名優、志村喬の付き人を務めていて、現在は舞台を中心に活躍中。

メンター 角間 進

清家栄一

蜷川幸雄氏の舞台に40年以上出演。舞台俳優として活躍してきたベテラン俳優。

チーフメンター 清家 栄一

羽子田洋子

蜷川幸雄氏の元、何十年と舞台に立ち続けた女優。藤原竜也氏の初オーディションの相手役を務める。

メンター 羽子田 洋子

舞台俳優編で、主人公を除いて5人のキャラクターが出てきます。

演出家 巌 裕二郎


作中では、演劇界の巨匠と呼ばれる演出家。次の公演が最後の舞台になるのではないかと言われている。


巌裕次郎は、主人公、夜凪景さんを「銀河鉄道の夜」主演の一人、「カムパネルラ」役に抜擢した演出家です。僕は「巌裕次郎」は蜷川さんをモデルにしたキャラなのかなと思いました。


僕は蜷川さんと似ているところもあるけど、色々と違うなと思います。テレビに映る怒ったりしている場面は、ほんの一部ですよ。蜷川さんも「怒った部分だけ切り取ってほしくないな」と言ってましたから。

巌裕次郎さんが稽古場が好きって部分は共通するかもしれません。蜷川さんは誰よりも早く来て、最後まで居るような人でした。「稽古場にいるのが一番好きなんだよ」って語りながら。でも、家に帰れば、良き夫で良き父親でしたよ。なので、この巌さんとはちょっと違うかな。蜷川さんは演劇も大切だけど家族も大切にする、僕の尊敬する方でした。


「俺を恐れて逃げて行った役者は数知れない。芝居芝居で家庭を顧みない俺に、家族も愛想を尽かせ出て行った。」

巌裕次郎は巨匠だが、孤独な人間として描かれる。


余談ですが、昔、蜷川さんから、役者についての価値観を聞いたことがあります。

「清村盛になれれば役者として本望だろう」と言ってました。「清村盛」は「タンゴ・冬の終わりに」という作品に出てくる、引退した俳優役の登場人物で、色々な役を演じた結果、現実と役との区別がつかなくなるんです。そこまで色んな役に本気でのめりこんだら、役者人生として本望という意味かな。

実力派若手俳優 明神 阿良也


本能で役を演じる役者。天才と言われるが、コミュニケーションに問題がある。


作中で巨匠、巌裕次郎の秘蔵っ子で、演劇界の怪物と言われる、実力派の若手俳優。「銀河鉄道の夜」でもう一人の主役「ジョバンニ」役を演じます。僕は藤原竜也さんがモデルなのかなと思いました。


私は竜也さんとは、違うキャラに思えるけどね。竜也さんは本当に一途に努力する人だと思う。役に本気で向き合って、ひたむきにやっているんじゃないかなと思います。舞台「ハムレット」の時は、蜷川さんが全否定する勢いで、10秒に一回は怒鳴ってましたけど、それでも必死で喰いついていってましたもん。すごかったなぁ・・・

竜也さんはあらゆることに対して真摯に向き合って努力して向かっていく人ですね。そして、トップスターと言われる今でも、すべての人に対して今までと変わらずに接してくれる謙虚さを持っています。明神阿良也くんは人として凸凹しているでしょ。周囲の人と一線隔てるような感じは竜也さんにはないですね(笑)


やっぱり竜也さんと違うんですね。なら、明神阿良也くんを役者という視点で見た場合、どう思います?


明神阿良也くんはやっぱり人間として結構屈折している部分があるよね。欠点をもっていて、役者として面白い人じゃないかな。


役者って、大なり小なり、内に狂気を持つ人が多いんですよ。人生で、何か特別な経験をしていたりすると、役に深みのような魅力が宿るんだよね。観客側も、そういう魅力に引き寄せられる。彼もそういうった狂気を持つ人間かな。


「俺は今、かつてない程、役に潜れている。自分でも興奮してるくらいだ。」

役作りのためなら、演出家、巌裕次郎にも噛みつく・・・!


ただ、俳優の才能がなかったら、なかなか大変だったと思います。夜凪景さんの家に行って、彼女を精神的に追い詰めたシーンとか、たぶん悪意なしなんですよね。ああいうのって、周囲の人間と本人との間に軋轢を生んで、もしかしたら、どこかで辛くなるんじゃないかな。そういう面で人間として成長してほしいですね。

役者 星 アキラ

 
母親が元大女優であり、事務所の社長でもあり、事務所の力で今回の舞台出演が決定したと言われている。しかし母親からは「役者としての才能がない」と見放されている様な描写がある。


「映画編」にも出てきたイケメンの役者さんですね。今回は事務所のごり押しで舞台に参加なのかな。天才型の夜凪景さんと明神阿良也くんに挟まれて、「なんで僕なんかが選ばれたんだ」みたいなポジションです。


星アキラくんは、天才と比較される凡人として描写されているけど、巌裕次郎さんには認められているわけでしょう。そして、巌さんは彼に期待していると思いますよ。もし才能がないなら、コネでも入れないと思いますからね。

だから彼も気づいてないだけで、才能があると思います。作中に巌さんから「アキラの母への罪滅ぼしで舞台に参加させた」というシーンがありますが、「事務所のコネクションがあるからとりあえず舞台に参加させました」という意味じゃないですよね。


「僕なんかが なぜ このタイミングで・・・」

実力ではなく、所属事務所のコネクションで舞台出演が決まったと感じる星アキラは、共演する役者との実力差に悩みつづける。


役者って、明神阿良也くんの狂気のように人生に何かを背負っている人のほうが表現する時に魅力が出てきますよね。切なさとか、人生の重さとか。ずっと幸せで恵まれていると、そういうのって出てきにくい部分かもしれません。でも星アキラくんは「自分が恵まれているって思ったことは無い」と言って、心に闘志を秘めてるでしょう。コネだけの人間だったら、一時的にテレビや舞台に出ても、長続きしなくて、淘汰されてしまうんですよ。

彼は舞台で演出家が欲しがっている「何か」は持っているんだと思う。淘汰されるか生き残るかどうかっていうのは、彼の成長次第かもしれません。

役者 青田 亀太郎

 
巌裕次郎率いる「劇団天球」所属の俳優。仲間内でお笑い担当だったり、星アキラに対して皮肉を言うなどしているが、役者としての実力はかなりのもの。


青田亀太郎くんは役者として見るとどうです?


青田亀太郎くんは、星アキラくんや主人公の夜凪景さんにつっかかっていくけど、根はいいやつですね。後半になれば、芝居に対しての情熱や人のよさが出てきますし、僕は舞台俳優編で一番好感が持てます。

役者は欠点がある人のほうが芝居が面白くなる時もあるけど、青田亀太郎くんのような好感が持てるキャラもいいよね。人間として優れて表現も優れているような感じで。


「その調子で全部顔に出して行こうぜ どうせ俺らは似た者同士。いくら取り繕ってもダセーんだからよ」

緊張する星アキラに声をかける青田亀太郎。皮肉屋に見えながら、その内面はやさしさで溢れている。。


青田亀太郎くんみたいな人は知り合いにいましたね。彼みたいに「特徴を持った表現」ができる役者は、ビジネス本位な世界に行ってほしくないなぁ。有名になる前にビジネス本位な世界に行ってしまったら、彼の演技は悪目立ちして、「そういう演技はやめてくれ」って言われて矯正されてしまうんじゃないかな。だから小劇場みたいなところで舞台やりながら、どんどん成長していって、そこでテレビや映画などの映像の世界にスカウトされてほしいよね「あの青田亀太郎ってやつ、面白いキャラクターだから使ってみるか」みたいな感じで。

役者 三坂 七生

 
「劇団天球」所属の役者。
舞台ではキャラクターがガラッと変わる。
演出家 巌裕次郎を心酔し、最後の公演を成功させたいという想いを秘めている。


彼女も、「劇団天球」所属の役者です。三坂七生さんは出演者として、「巌裕次郎の最後の公演を成功させたい」という強い想いを持ったキャラクターですよね。


三坂七生さんは演出家、巌裕次郎の公演を必ず成功させるために頑張っているし、僕が一番共感できる人でもあるよ。

ただ、巌裕次郎さんにすごく心酔しているから、最後の舞台が終わったら、彼女はどうするんだろうか。


全部終わって燃え尽きたら、何年も演劇から離れるかもしれない。演劇に戻るか戻らないかは彼女次第かもしれないね。心持ちだよね。抜け殻になるかもしれないし。

でも、例えば、一度は演劇をやめてしまった「すまけい」さんを、井上ひさしさんが引き戻したように、何らかのきっかけで戻ってくるかもしれない。そういうのもいいよね。一度フェードアウトしても、戻ってくるかどうかは彼女次第だけど。


役者が辞める時って、自分の才能に限界を感じる時に辞めるんじゃないかなって思う。僕も蜷川さんに芝居を認められたかったけど、だからといって、蜷川さんがいなくなってしまった時に、辞めるという気持ちにはならなかった。そこは彼女も同じなんじゃないかな。


「まだ30日もある。普通の30日と巌さんの下での30日、一緒にするな。」

弱音を吐く星アキラを叱咤する三坂七生。巌裕次郎を心の底から信頼しているからこそ出る言葉。

・舞台俳優編についての解説


舞台俳優編って、皆さんから見て身近な題材じゃないですか。今回のアクタージュを読みながら親近感とか湧きます?


漫画と実際の世界じゃ異なる部分はあるけど、この舞台俳優編は結構詳しいですよね。原作の方は演劇関係の方なのかなぁ。よくご存知ですよね。


「役作りのため感情を深堀りして表現する」とか、知らないと書けないし、芝居のことを良く知っているんじゃないかな。


私はこの漫画の展開、好きですよ。作品に銀河鉄道の夜を選ぶのはちょっと渋いし。実際の舞台とはまた違う部分がありますけど、それはそれで楽しいですよ。


では、人物紹介が終わったところで、アクタージュ舞台俳優編の展開について、舞台俳優歴30年以上の皆さんから熱い解説です。

1.役者は何をもってプロとするか


「役者に免許はない。なら何をもって素人とプロを区別する?」

劇団に来たばかりの主人公 夜凪景を見て「素人を使う気か?」聞いた時、巌裕次郎からの問い。


「役者に免許は無い。何をもってプロと素人と区別する?」と言われてますが、皆さんはプロと素人の区別みたいなものってありますか?


これは難しい話です。役者は、「今日から役者やる」って言った瞬間役者になりますからね。町で顔を知られているかどうか、仕事してお金もらえるかどうか、人によって、プロか素人かは色々な考え方がありますよね。


私は境目を考えたことがないですね。なぜなら、素人と呼ばれる人でも、ものすごい芝居をする人がいる。素人と呼ばれる人しかできない芝居もある。じゃあその境界は何だろうってなります。だからあんまりプロとか素人とか考えたことはないです。

2.試される即興芝居


「ここは汽車の中だよ。座ってよ、景」

主人公、夜凪景の実力を見極めるため、いきなり即興芝居をふっかける三坂七生。


劇団に入って、いきなり「汽車のシーンをやってみろ」と試されています。練習の場で、試験みたいになることってあるんですか?


蜷川さんの稽古場は、作品を見せる場所だったから、完成したエチュードを見せるのはよくありました。稽古場はピーンと張った糸のような緊張感に包まれた世界です。


清家さんがいったように、蜷川さんの稽古場は、「稽古する場所」じゃなくてオーディションの場ですね。セリフを全部覚えて、作品を提出する場所。

平幹二朗さんなんか、一番初めの稽古ですべてのセリフが入ってて、涙流して演じてました。


このシーンのあと「芝居がリアルすぎて伝わらない」というのがあるんですが、逆に夜凪景さんの芝居の表現を周りがすごくくみ取ってくれているなぁと思います。表現することができなかったり、分かりにくい表現やっちゃったら蜷川さんに「帰れ」って言われちゃいますからね(笑)


そうですね。夜凪景さんの「汽車に乗っています。」という表現がこの漫画のように分かりにくい場合「違う」ってめちゃくちゃ怒られます。表現力が伴ってないと蜷川さんにあっという間に却下されますからね。

ただ、このシーンは夜凪景さんの芝居を表現する力を持ってない重大な欠点を指摘するためです。だからこそ怒らずに待ってくれているんだと思いますよ。


「なんて繊細で不親切な芝居… この距離じゃないと気づけもしなかった」

主人公 夜凪景の即興芝居を間近で見た感想。


表現の話だけど、このシーンのように周りに状況を伝える表現力がないと、演出家が「なんでやらないの?」ってなるんですよ。でも役者は「そういう気持ちでやってます」というすれ違いが起きるんです。第一話のアレだよね。

主人公の夜凪景さんが、悲しみの底に沈んでる芝居を見せたけど、不親切な芝居だったので、星アキラくんが「帰ってくれ」って言ってましたよね。

アレが舞台なら、夜凪景さんが、見ている人全員に悲しみの底に入っているように見せなきゃだめなんだよね。気持ちも重要だけど、それを見ている人に表現として見せないとダメ。

映像なら表現力が足りなくても、カメラのアップなどを駆使してなんとかなるけど、舞台は表現ありきだからね。逆にいうと、表現が見せれればひとまずはOK。一番いいのは、気持ちも入ってて、表現もOKな場合だね。

3.役の掘り下げと表現することについて


役の感情を掘り下げと、役を表現することの関係性を図解で説明するシーン。

主人公 夜凪景は役の感情を深く掘り下げることはできても、表現することができない。

天才、百城千世子は役の感情は一切掘り下げないが表現はずば抜けている。

明神阿良也は役の感情を深く掘り下げながら、しっかりと表現することができる。


「役の感情の掘り下げと表現すること」ってのが図解で出てますが、みんなこんな感じなんですか?


頭の中を図で表すと、この表の話みたいになるのかな。多分。役者って自分のやり方を人に言わないですからね、だからこういう図も人によっては違うかもしれません。人それぞれな部分もありますね。

僕個人の考えとして、表現をすること、役の感情を深堀りすること、この二つはものすごく重要です。

例えば、セリフが聞き取りやすい発声をする、観客から見て分かりやすい動作を行う。そういう表現方法は伝わるけど、やりすぎるとわざとしくなってしまう。

一方で感情をこめてセリフを言う、感情に動かされて体が動く。観客は共感するかもしれないが、やりすぎると何を言ってるか、やっているかが伝わらなくなってしまう。だからこの二つを両立するっていうのはとても難しいです。役者の永遠の課題だと思っています。。

ただ、舞台は表現することが大事なので、観客に伝わらないと何の意味もないんです。映像ならアップで切り取れるけど、舞台は一番前の人も、一番後ろの人も、みんなが見えないとダメ、だから喜怒哀楽のシーンで怒られているんだよね。

また、表現の難しいところは、誰でもできるような表現をやっても、「誰でもできるじゃないか」って怒られるところですね。


「阿良也君の芝居は大袈裟なのにリアル。動作から感情が伝わってくる感じ」

感情の掘り下げと、表現することが両立できている明神阿良也の凄さ。


確かにみんなに伝えるって重要ですね・・・・劇中で「伝わりやすさ」について語ってるんですが舞台と映像ってやっぱり違うんですか?


映像は表現力が不足していても、カメラで寄ったり、声が小さくても音声さんが拾ってくれたりと工夫ができるんです。

でも舞台は表現することを前面に出さないとだめなんです。

自分自身をキャンバスにして表現したいものをデッサンして形を作るんです。

そのなかで表現することも、どれが正解ってのはないんです。表現することを貪欲に探していくと、これでもかってくらい一杯あるので、その中で一番を出すようにやっていきますね。


舞台の規模によっても表現力の技術は変わってくるんですよね。何十人単位と、何百人単位、全部手法が違うんじゃないかな。なんにせよお客さんに伝わらないと意味がない。セリフがきっちり言えて、体で表現できるというように。

映像は極端な話、機材の工夫で素材の持ち味を生かせるけど、舞台はそういったことができないからね。だから、自分自身で表現して伝えることが重要なんです。でも感情を掘り下げることも必要ですよ。表現して伝えることばかりだと、形だけの感情が見えない人になっちゃう。

たまにどうしても表現が出来ない人に演出家が「こうやってくれよ」って具体的な動きを決めてしまうんですよ。感情の掘り下げがまだできてない人にそれをやってしまうと、上辺だけになって、余計に伝わらなくなっちゃうんだよね。

4.星アキラは歓迎されない。


事務所のコネクションで舞台出演が決まったとされる星アキラ。劇団員と初対面のシーンでは、彼は歓迎されていない空気を感じ取る。


途中で出演が決まり、稽古に入る星アキラ君。あんまり歓迎されてなさそうだけど、劇団の雰囲気ってこんな感じなんです?


劇団員が露骨に歓迎しない空気になることは少ないと思いますよ。星くんの演劇に対するコンプレックスがそう感じさせてるだけかも。「俺たちはあんたを認めないよ」って空気が出てしまうと、公演にも影響が出ますからね。出演する人はみんな舞台を成功させたいと思ってるだろうし、そこは大人ですよ。「演出家が認めたなら俺たちも認めよう」というものだと思います。


演出家の実力がすごいと劇団の人たちもまとまっていきますね。なんだかんだで、「この人の演出のもとで色々やりたい」ってのがありますから。そういう意味では、作中の「劇団天球」はまとまってると思いますよ。

劇団って、まとまってないまま長続きすると「あいつばっか主役で俺はなんで端役なんだよ」っといった劇団内部でのすれ違いがあったりします。こういうのって、会社、スポーツ、色々な世界で同じようなことが起きるんじゃないかな。


演劇の世界も一般社会と似た部分があるんですね。ちなみに蜷川さんの作品に出演してから大成した方って多いですよね。

有名になってから主演に抜擢されたとか、あったのですか?


有名な人だと何か月も稽古するためのスケジュールの空き時間がないんです。

だから、「顔は知られてるけど、これから」といった人が、舞台の主役でした。

主役を演じる上で、蜷川さんに絞られて、熱をだすくらいうなされて頑張った結果、舞台から人気が出て、有名になって、大成していくんですよね。蜷川さんに使われる役者は売れるというジンクスが演劇界にありましたからね。

5.夜凪景が悩む「表現力」「役作り」

 
「見たこともない人間をどうやって理解すればいい?まるでどうすればいいか分からない」

重大な欠点である表現力不足に悩む夜凪景。役作りでも、銀河鉄道の夜の「カムパネルラ」という、死者であり、達観し、謎めいた役をどうやって理解すればいいのか壁にぶつかる。


主人公の夜凪景が役作りや、表現方法について壁にぶつかってるんですが、プロでもそういうことってあるんですか?


不条理劇なんかで「どうしたらいいか」みたいな作品に出会いますよ。不条理劇って、ありえないこと、理解が及ばないことが起きる演劇ですからね。でもすべてが「どうしたらいいか」って理解に苦しむわけじゃなくて、劇の中のところどころは理解できるところがあるんです。理解できるところをとっかかりとして、そこはリアルに作りこむ。すると道が見えてくることもあります。


分かっているところから解く、みたいな感じですかね。


あとは、役が理解できなくなったら、まずは戯曲にのっかることかな。ありえないものって自由な発想でできるから、私は楽しいって思うこともありますよ。ただ、芝居の設定や役から外れすぎるのはダメだけど。

そして、「意味が分からない」「理解しがたい」考え方や行動をとる人がいたとしても、意味の分からなさ、理解し難さは、その当人なりの理屈があるんだよね。

当人の理屈は何だろうか、なぜこんなことをやっているのかと考えて、人物の肉付けを行うと、周りからは意味が分からないものだったとしても、当人は自分の理屈に従って、大真面目にやってたんだって見えるようになることもありますよ。


ひたすら考えて想像していくんですね・・・難しい・・・


あとは蜷川さんに「想像できなきゃやってみるしかねえだろ」って言われたこともありました。ただ、なんでもかんでも本当に実体験できるわけではないんです。このカムパネルラの死も、実体験しようがない。だから想像力が必要なんですよね。

想像力を養うために、優れた小説や映画などを観て勉強することも必要ですよね。


死って誰も体感したことがないものなので、死ぬってことを追いようがないですよね。だから観てる人に伝わるにはどうするかを考えるかな。作品というのは、その人の受け止め方で自由なんじゃないかなって思います。

6.役作りのためなら、どんなことでもする明神阿良也

  
「ところで夜凪って、兄弟のこと、疎ましく思ったことある?」

両親がおらず、たった一人で兄弟を育ててきた夜凪景にぶつけられる、明神阿良也の無遠慮な言葉。そして、夜凪景の気持ちすら明神阿良也は役作りとして”喰う”


明神阿良也君、夜凪景さんの家に行くシーンで役作りとはいえ、結構な発言してますね・・・


明神阿良也君の紹介の時に言ったように、役者に何かしらの内面に狂気を持っている人もいると思います。稽古の段階なら、この阿良也くんみたいな追い詰め方はありだと思う。何かそこで掴んでキープするのがプロだからね。

ただ、彼は追い詰めているわけじゃないだろうね。ついでに夜凪景さんに「役作りってこうやるんだよ」って背中を見せているんだと思うけど、不器用だよね・・・


明神阿良也くんはジョバンニのバックボーンを作りたかったのかな。

役を深めるときってバックボーンが重要だと思うんです。演劇の言葉で貫通行動とも言われるものですね。

例えば、僕が「国語元年」の時、「弥平」という人物をやっていたんですけど、自分の頭の中に、弥平の人生の年表を作るんですよ。弥平が劇中に登場するまでには、どういういきさつがあって、どんな人と出会い、別れがあり、途中で女房と出会って結婚したりと、リアルさを考えて役を作っていくんです。すると役に深みがでてくるんです。

明神くんがやろうとしていたのは、そこのリアリティを追及しようとしていたんだろうね。

こういうのって、台本にほとんど書かれてない人物だと、どう想像するか試されるよね。例えば青田亀太郎君の「銀河鉄道の夜 ザネリ役」とか。

どう考えるかは役者の自由だと思います。僕の知っている例だと、平幹二郎さんのハムレットの時、池田鴻さんが親友のホレイショーという役をやっていたんですよ。ところがホレイショーってどんなキャラクターなのか、台本にあまり書かれてないんです。そこで、池田さんは、「ホレイショーというヤツは、サラリーマンなんじゃないか」って考えたんです。ホレイショーはどんな時でも上に従い、イエスと言うサラリーマン対応をするキャラとして深堀りしていました。

そういうバックボーンって大事ですね。役が一気に深くなるから。

7.周囲の凄さから意気消沈する二人。

  
「カムパネルラになれるとは思えない。」「僕なんかがなぜこのタイミングで・・・」

二人とも役作りや舞台に対して意気消沈してしまう。


それぞれ原因は違うけど、二人とも「なぜ自分なんかが・・・」って気を落としているんですよね。


僕も壁にぶつかってもがき苦しむことはありますよ。でもダメだと思ったらもうそこで終わっちゃいますね。


稽古は戦いですからね。ガンガンダメ出しされて、気持ちが「もうダメだ」ってなって意気消沈したら、容赦なく降板させられます。そこで負けずに、「これはどうだ、これならどうだ!!」次の一手を出していって喰らいついていくんです。

だって、自分がダメって思うと役もダメになっていくから。

だから、ダメ出しされても、四苦八苦しながら喰らいついて戦っていって、ダメなところを乗り越えていくんです。もちろん、落ち込んでるように見せて、虎視眈々と機会を狙ったりと、正面からぶつかる以外にも色々な戦い方があるんですけどね。


ダメだしがあるから、どうやって役を作るか掘り下げていくんです。「もうダメだとか、何でもいいや。」ってなったら、芝居はどんどんぬるくなる。ぬるくなった芝居はどんどんダメになっちゃうんですよ。

そういった芝居に対する姿勢は共演するとわかっちゃうんですよ。だから辛いけど、ダメ出しがあるほうがいいんですよね。


余談だけど、この夜凪景さんが立ち直って、壁を乗り越えるシーン、個人的に、あの「百城千世子」が役の掘り下げをやっている場面があっていいよね。どう見えるかだけ考えていた人が、役の気持ちの掘り下げをしているわけだから。

8.役者が「化ける」とは


「まだだ、まだ化けさせられる」

壁を乗り越えて大きく進化した夜凪景。役作りがどんどん進化する明神阿良也。二人を見て、さらに進化させられると感じる巌裕次郎。


巌裕次郎さんが「化けさせられる」って言ってるんですが、化けるっていうのは演劇で言うとどんな感じなんです?


そうだね、演劇で化けるっていうのは、僕の経験からいうと、「役が表現できている」というレベルから、急激に役の感情や内面の掘り下げができるようになっていって、どんどん深い表現が伴っていくことかな。

具体的な例でいうと、今までずっと見過ごしてきた言葉の一つ一つの意味、その時の感情を含めて、役の人生を自覚していくんじゃないかなと。セリフが本当に自分のものになった瞬間に化けるんですよね。

例えば、森光子さんが放浪記の「林芙美子」役をやったとき、ものすごい貧乏という設定だったんです。それで、バイトしていたカフェでクビになって、最後のお給金を渡されるシーンで、森さん演じる「林芙美子」が食い入るようにお金を数えるんですよ。

僕は森さんの稽古を見てて、あっと気づきました。「ああ、林芙美子の下敷きにある貧乏ってこういうことか!!」って。そういった見過ごしてたものが見えるようになることが、役の深さに気づく瞬間ですよね。

それが自分に与えられた役で気づいて、役の人生により深く入り込むことが化けることかな。


なるほど・・・ちなみに化けるための方法みたいなものってあるんですか?


そうだねえ、芝居をやるときに「日々、与えられた役の人生を生きているかどうか」ってのは関係していると思うね。

芝居って毎日変わるんだよ。自分の感情、体調、相手役との呼吸など。そういったものを考えると、機械的に「今日はこのセリフ」ってなってしまうといけないんです。だって、芝居というのは言葉と感情のキャッチボールだから。そのキャッチボールを繰り返していくと、滅多に起きないけど、ふっと役の感情が自然にわいてくるんですよ。

そういうのを大切にして、役を作っていくことが方法の一つかもしれないね。

ちなみに、そういう感情は、自分が「どうセリフを言うか」じゃなくて相手役からのセリフを「聞くこと」で、生まれていくんです。でも「聞く」って簡単にできないんですよ。

毎日の公演は、観客が見に来ているから湧き上がる感情を期待するよりも、芝居として成立させないといけないわけです。となると、「聞く」よりもやることに一生懸命で、「セリフを言わなきゃいけない、表現しなきゃいけない」ということに囚われがちになっちゃうんですよ。だからとても難しいんです。

でも、名優と呼ばれる方々は、相手のセリフを「聞く」ことで出てきた感情をうまく表現することに長けてますよね。

9.役者ほど自由な職業はない

 
「この世で最も自由な職業を役者というのに、逆だと誤解している」

所属事務所の看板と、名女優であった母親の名前を背負う重みからか、発声、動作、セリフをこなすだけの無難な芝居しかできない星アキラ。彼に役者の本質を語る巌裕次郎。


このセリフと似た意味の言葉を、シナリオクラブでもよく聞きますね。


蜷川さんは「演劇を通して自分の人生を語りたいから芝居をやっているんだろう」と言ってましたね。言い換えれば、役者というのは、自分の人生を演劇を通して語ることができる職業かなと思います。


「この世でもっとも自由な職業を役者というのに、逆だと誤解している」

私もそう思います。「役を借りて自由に表現することができる」のが、役者の醍醐味ですよね。例えば、相手を軽蔑して傷つけるような言葉があったとします。それを私が「羽子田洋子」として言ったなら、「羽子田洋子」の人間性が疑われたりします。

でも、私がマクベス夫人としてそのセリフを言うなら、「羽子田洋子」の人間性は疑われないじゃないですか。つまりマクベス夫人を演じているとき、どんなに悪いことをしても、悪行を唆しても「羽子田洋子」という自分は何の罪悪感を持たなくていい。あくまでも劇中のマクベス夫人が行ったことなのだから。

そういう意味で、役者って好きなだけ自由を得ることができると思うんですよ。


星アキラくんが「つまらない芝居だ」と言われているのは、芝居を無難にこなすからじゃないかな。

声も出てるし、発声もできている。でも役の深みが特にない。無難な芝居。OKなんだけど面白くないって言われる。

若い人って、役の深みを作らなくても、集中力、瞬発力で芝居ができちゃうんです。でも、演出家の言われたままにやってしまって、芝居は成立はするけど、それだけになっちゃうこともある。

表現のところでも触れたけど、演出家通りにやったら演出家の想像を超えなくなっちゃうんです。「なんで演出家は自分にこれを求めているんだろう」とものすごく考えることが重要なんです。そこをじっくりと考えて、色々なものを組み立てて、役を作っていくんです。そうした時に演出家の期待しているものをさらに上回ることができて、成長していくんじゃないかなと思います。

10.「俺が演出家でお前が役者だからだ」


「俺が演出家で、お前が役者だからだ」

余命が残り僅かであることを伝える巌裕次郎。治療をすすめる夜凪景に対して、余命すらも演出に利用する。演出家、巌裕次郎なりの覚悟。


演出家って孤独なんですよね。作品の出来、公演の結果、全体のプロデュースなど、全部を背負っているわけですからね。

役者をまとめ上げて、作品を完成させて、成功に導くためにシビアさが必要で、公演全体を見渡す目線は演出家しか持ちえない。だから演出家の気持ちをわかる人間は誰もいない。経営者と同じような孤独を演出家は持っているんじゃないかなと。

このシーンでは、公演を成功させるために、あらゆることをしようとしているじゃないですか。でも夜凪景さんには理解されない。巌裕次郎さんは孤独だと思いますよ。「一対みんな」という立ち位置が演出家かなと。


巌裕次郎さんは、公演を成功させるために、自身の死の体験を夜凪景さんに追体験させようとしているんですよね。役者目線の話をすると、現実と芝居のリンクってあると思います。

現実世界に起きたことがきっかけで、役にとてつもなく深く入りこむことができたり、言葉一つ一つの重さが違ってきたり。

今回で言うと、巌さんが死ぬ間際を語ることで、「カムパネルラ」の死者というものを追体験させて、夜凪景さんを化けさせようとしてますからね。もちろんバックボーンが無くてもとんでもない芝居をできる人はいますよ。想像力が豊かだったり、センスが良かったり。

11.エゴイストとして


「”ほんとうにいいこと”さえしてりゃ、きっとお前たちなら許してくれると信じてんだよ。巌のじいさんは」

巌裕次郎は、最高の舞台を作り上げることができれば、自身の病を隠していたこともみんなから許されると信じている。


銀河鉄道の夜で出てくる「本当の幸い」作中では、巌裕次郎さんにとって、最高の舞台が「本当の幸い」って語られてますね。

「残された人間はどうするんだ」とも言われてるけど、実際にその立場になったら皆さんはどうしますか。


もし、私が役者の立場で、巌裕次郎さんの余命三ヶ月を知った場合、「舞台をやめて病気を治療して!」とは思わず、最後までやりきってほしいと思います。人って最後は「好きにやりたいこと」が勝つんだよね。だから、巌さんも好きなことをやって輝いてほしいなと。


僕も役者として巌裕次郎さんの余命を聞いたとしても、彼に好きなことやってほしいと思いますね。止めようとしても止められないと思いますから。この話を見てると、巌さんと劇団員って絆で結ばれてるんですね。

蜷川さんが時々言ってたんですよ。「人間ではなく、作品や才能に人が惹かれてくるので、自分は孤独だ」って。僕は蜷川さんを人として尊敬していましたけど。

12.「これが幸せか」


「これが幸せか」

公演前の最後の稽古。巌裕次郎のもとから離れていった人間も多い中、最後まで自分を慕ってくれた劇団員。彼らと最高の公演を作り上げていく中で、不意に言葉が出る。


僕はこのシーン好きです。本番に向けての最後の稽古風景。巌裕次郎さんは自覚無しで「これが幸せか」ってつぶやいているんですよね。


作中の巌さんも、輝くものを追い求めているのかな…

晩年、蜷川さんが、ゴールドシアターという、一般の方とお芝居しているとき、大変だったけど、「輝きに立ち会えることがある」って言ってました。一般の方の輝く生きざまで、プロの方ができないことをやる。

蜷川さんの「輝くものを追い求める姿」はめちゃくちゃ格好良かったです。その姿を横で見られたのは僕にとって本当に幸運でした。

僕もシナリオクラブで演出担当してて、輝く瞬間を見ることがありますからね。巌さんも、最後の舞台稽古を行う劇団のみんなを見ながら、輝くものを見たのかなぁ。だから本音がポロっと出たのかもしれない。

 

蜷川さんは時々指導するときに、「これは遺言だから聞いてくれ」と言ってたことがありました。

…あとは「最後まで現場の人間としていたい」と。

蜷川さんが亡くなった時、僕を含め、それまで蜷川さんと過ごしてきた方々は色々な思いを抱えてたと思います。稽古をすることが供養であったり、最後のお別れに行くことが供養であったり。

僕は骨を拾いたかった。でも、もしもその時の僕の役の出来が不完全だったら、稽古に行くことのほうが供養だと思ってたかもしれないな…

・最後にメンターの方々からの感想


これから、アクタージュの舞台俳優編のクライマックスが始まりますね。どんな展開になるかはこれからのお楽しみですが。

舞台俳優編、皆さんとすごく身近な話だったと思いますがどうでした?


毎号、面白く読ませてもらってますよ。

経験してきた舞台俳優の世界とちょっと違うところはあるけど。


でも、あってるか違っているかなんてのは置いといて、面白いよね。

舞台って、映画と違ってやっぱり映像に残りにくい世界だから、これをきっかけにして劇場に足を運んでくれる人が増えたらいいよね。


映像、舞台、幅広く演劇というものを見ていってほしいですよね。ちなみに、これ舞台俳優編終わったら何になるんだろうね。


何でしょうね。歌舞伎や能の世界?声優の世界?次の展開に期待して待ちましょう!!

声優だったら声優のメンター、塾さんに聞いてみよう!!

そして第4巻は11月2日発売予定!!今回の舞台俳優編の話も掲載されてます!!

 

今回、ご助力いただいた、メンターの皆様、

集英社の村越様、マツキタツヤ様、宇佐崎しろ様、本当にありがとうございました!!

シナリオクラブはこれからもアクタージュを応援していきます!

次回お楽しみに!!

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