スタッフ竹森です。
5月2日、アクタージュ6巻が発売になりました!!
表紙は銀河鉄道の二人!!
6巻には、銀河鉄道の夜のパンフレットが特典でついてます!!
なんと書き下ろし!!
そして、「舞台俳優編」堂々の完結!!
この舞台俳優編、巌さんが危篤、公演中止という危機があり、亀太郎が活躍し、そして七生の想い出やアキラの芝居、阿良也と巌さんの関係についてなどと、もう、盛りだくさんです。
そして巌さんが舞台に託したこと。
前回から、期間が大きく空いてしまいましたが、今回は、そういった出来事を、舞台俳優の皆さんはどう捉えたか、実際の経験を交えた話をしながら、お伝えします。
ちなみに、今回の記事は文字が多めです!
前回までの記事はこちら!!
考察してくれる舞台俳優の皆さんはいつも通り、こちらの方々です。
清家栄一
蜷川幸雄氏の舞台に40年以上出演。蜷川幸雄氏演出の舞台に最多出演で活躍してきた。
角間進
劇団青俳出身。放浪記で、名優、森光子さんと10年以上共演。かつての名優、志村喬の付き人を務めていて、現在は舞台を中心に活躍中。
羽子田洋子
蜷川幸雄氏の元、何十年と舞台に立ち続けた女優。藤原竜也氏の初オーディションの相手役を務める
<目次>
1.じゃあ、あの人の最後が!!俺らの親父の最後が!!(青田亀太郎)
3.たった一か所の小さな綻びが、全壊につながる。(星アリサ)
4.作品さえ残れば 無念なんてことはねぇはずだと(黒山墨字)
9.俺はあんたの死を喰らって、より高みへ至る。(明神阿良也)
10.これが憑依型カメレオン俳優 明神阿良也。(百城千世子)
11.嘘吐きだらけのこの世界で、嘘を吐かない覚悟をした者を役者という。(巌裕次郎)
13.たとえ死んでも一人にはなれない。その幸福に気づくことを芝居という(巌裕次郎)
1.じゃあ、あの人の最後が!!俺らの親父の最後が!!病院のベッドで独りぼっちって…そんなことあっていいのか!?(青田 亀太郎 アクタージュ5巻 P57)
巌さんが危篤のため、公演を中止するかどうかの判断を求められている緊迫した状況です。
現実でもこういったことはあるんでしょうか?
ありますよ。個人の問題か、全体の問題かという差はあるかもしれないですが。
いかに動揺しないで乗り越えられるかが、試されるときですね。
有名な話だと、平幹二朗さんが倒れたとき、本田博太郎さんが代役で頑張ったことがあります。
大きなトラブルが起きたとき、関係者みんなが、「まず、なんとかしよう!!」ってなるよね。
阿良也君が言ったように、プロなら、覚悟が必要かな。ここまできたのなら「やらねばならない」っていう覚悟。
みんなでトラブルを乗り越えたら、そのおかげで舞台が逆に盛り上がったりすることもありますからね。
「巌さんの死に目に会いたい」という想いはわかるけど、私たちは、お客さんに対して責任があるから、なんとかしなくちゃって思うんだよね。
清家が言ってた平幹二朗さんが倒れた時の近松心中物語の舞台なんだけど。
あの時の本田博太郎さんって、本当に急遽の代役だったんで、周りのみんなは、自分の役やりながら、ものすごく気を使いながらやってたんですよ。
すると、本田博太郎さんの若い演技と、主人公忠兵衛の田舎から出てきた初々しさが完璧なまでにピタリとハマって、すごいいい作品に仕上がったんですよね。
そういうことってありますよ。
今回みたいにみんなが動揺したり、緊張してどうしようもないときに、わざと変なことを言ったりして、緊張感を減らしたりするよね。
劇中だと、景ちゃんがアームロックかけてるけど(笑)
やっぱり、観に来てくれたお客さんを裏切ることはしてはいけないと思う。それがプロだからね。
2.亀の芝居を見ろ。あいつはお前に似ているが、舞台の上では、阿良也と張り合う。(巌 裕次郎 アクタージュ5巻 P87)
天才、明神阿良也と張るくらいの芝居をする亀太郎についてです。
亀太郎のような脇役ってどんな感じですか。
名脇役で、主役と張り合うくらいの人っていますよ。「あれ、この人誰だろう?」って気になるし。
セリフもいいし、存在感もあるし、舞台に立つ姿も魅力的だし。そこから大成する人っていますね。
何年かしたら、有名になってて、「あの時見た人だったのか・・・」ってなるんだよね。
本当は、芝居には、主役も脇役もないんですよ。お芝居全体が生きないとダメ。主役だけいいけど他がだめでは、いい舞台ではないですね。
ただ、お芝居全体がよければ、主役がよく見えるので、そっちに視線が行くのは仕方ないです。でも本当は、主役も脇役もない。
「なぜ主演と助演に優劣をつける?」ってセリフがあるでしょ。
蜷川さんは、「たまたまロミオとジュリエットにスポットが当たっただけで、どんな奴にも人生があるんだ」って言ってました。
「自分の役を自分で落とすな」って。
あと、名脇役っていう言葉もあるわけで、脇役がやりごたえがないというわけじゃないからね。
主役以外は、みんな脇役なんですよ。
ある場面では、助演が主役を食っていくこともあるからね。
「ここはいただこうぜ」って。
喰うことによって、芝居のバランスが崩れちゃまずいけどさ、喰うことで芝居が盛り上がるのはありですよ。
「ブラックレイン」の松田優作さんなんかが、いい例ですよね。
ただ、悪意が出ちゃだめですよ。
悪意ってのは、自分のわがままを出そうとすることね。それが見えちゃうと観客も引くからね。
昔、演出家に「ちっちゃい役ほどがんばれ」って言われたなぁ。
一言だけの役でも、全く手を抜かないで、いろいろと考える人と、ただ流す人だと大きな差が出るよね。
役をもらって「ただストーリー的に必要だから」っていう考えでは、舞台に立たないほうがいいと思うんだよね。
三木のり平さんが言ってたんだけど、「役には一番バッター、二番バッター、三番バッターといったように役割があるんだよ」って。
亀太郎くんは、ザネリという役を「ダセェ役」として受け止めながら、舞台に立ったら何をすべきかをわかったうえで、全力を出しているね。
3.たった一か所の小さな綻びが、全壊につながる。それが演劇よ(星アリサ アクタージュ5巻 P93)
小さな綻びから崩れる舞台って、どんな感じですか?
演劇は、みんなで嘘を積み上げているわけだから、そこに一つでも穴が開いたら、全体が崩れていくよね。積み上げたものが一気に崩れちゃう。
舞台は役を演じて観客をその世界に引き込んでいるから、最後まで役のまま続けないといけない。穴っていうのは、役を放り出して、素が出てしまうことだよね。
素をみてしまうと、見ている人が白けてしまうんですよね。
分かりやすい例だと、舞台上で、気を抜いてる人。そんな人は悪目立ちするし、全体の中で違和感があるから、お芝居を壊すよね。
主役のそばで、手を抜いた人がいると、丸わかりになるからね。
舞台のほころびって、演出家が気を配って崩れないようにするんだけど、このアクタージュみたいな演出不在の場合だと、ちょっと怖いかもしれないね。
演出家って一種のカリスマだから、いるだけで、場が引き締まるからね。
だから演出家不在だと、気を抜いてしまって、大変なことになる俳優もいる。
悪目立ちなら、手応えを芝居に求めすぎて、オーバーアクションになるのもそうかもしれない。
芝居って何日もやってると手ごたえが欲しくなって、だんだんオーバーになっていくんです。
爪痕を残したいから、やたら力を入れて頑張っちゃうときがあるんだよね。
具体的に言うと「どうぞ、こちらへ。」ってセリフがあったときに「どうぞ!!!こちらへ!!!!」って全力でやっちゃったり。
それを観客側から見ると、悪目立ちしているから、しらけちゃうんだよね。
全力で考えながらも、演じるときは、サラっとやって、ちょっといいなって思われるくらいがよかったりする。ふっと力を抜いて演じると、芝居全体が綺麗に流れていったりするんだよね。
でも、結構辛いんだよね。サラってやると「やった手応え」が無いから。
頑張りすぎていることと、必死さは、少し違うかな。
お客さんは必死になってやってると、結構受け入れてくれるんだよね。
例えば、昔、僕が敵討ちの芝居をやったとき、相手のカツラが飛んでしまったんだ。
そういうときは、すぐさまカツラの下の羽二重という布をとればいいんだけど、その時の相手役はうっかり取り忘れてしまった。
その時に僕が抱きしめながら、羽二重を取った。その時は拍手が起きて、芝居が全く壊れなかった。
一生懸命やると芝居は壊れないものなんだよね。
舞台の綻びは、逆に、役者が手を抜いてたり、遊んだりしているのが見えたら壊れる。客に気づかれないように、ほかの役者をつついたりするのを遊ぶって言うんだけど。
さっき言ったように、緊張している相手を落ち着かせるためにやることはあるけど、舞台上でやっちゃったら芝居が壊れるよね。
そういう意味では、巌さん不在だけど、全員でなんとかしよう!!って思っているこの公演は、観客側からみても、綻びは少ないんじゃないかな。
4.作品さえ残れば 無念なんてことはねぇはずだと(黒山 墨字 アクタージュ5巻 P99)
作中では、「作品」を舞台ではなく、阿良也を暗示しています。
演出家にとって、作品ってなんでしょう。
ここに暗示されているように、俳優も作品なのかもしれない。
演出する側から見てても、伸びていく人ってめちゃくちゃ楽しいからね。
一方で、舞台はあきらかに「作品」。
蜷川さんが、「演出家は、”自分が見たいもの”を舞台として作る」と言ってた。そしてそれが世間に受け入れられるのなら、演出家としての才能があるわけだね。
僕は、語り草という意味で残ると考えたら、「俳優」かな。
「森光子さんの放浪記がよかった」「杉村春子さんの女の一生がよかった」
なんてね。
今は舞台も映像で残すことができる。でも、映像では、舞台の臨場感は伝わりにくい。やっぱり、その舞台を実際に見た人が、何か大きなものを受け取って、それを語り草で伝わっていくから、作中で暗示しているように、俳優かなと。
5.大丈夫。すぐ…止まるから… 出ていけ、出ていけ、出ていけ、出ていけ…(三坂 七生 アクタージュ5巻 P104)
七生が崩れかけてます…
この作中のように、個人のトラブルは、周りの人がフォローしようとするし、その人もトラブルを乗り越えようとして、結果的に芝居がよくなったことはあります。
私自身もギリギリになって代役を頼まれた経験があります。そういう時は、出来る限り、芝居の質が落ちないように頑張ると思います。
一方で作中で崩れてしまった七生さんのように、誰よりも繊細で優しいナイーブな感性というのは重要なんです。そのナイーブさが役者としての魅力だから。
ただ、夜凪景さんの「そんなんじゃ、銀河鉄道に乗れないね」というセリフは、「それじゃ舞台に立てないね」という意味と、「死に対して向き合ってないね」っといった二つの意味があるんじゃないかな…。
夜凪景さんが見せた銀河鉄道の景色というのは、「劇団天球」で一人でも輝く役者になってほしいという巌さんの想いなのかな
何らかのトラブルで、本番前に気持ちが崩れたところから立ち直るのは、ものすごく困難だと思う。
しばらくは、そこに囚われて芝居ができなくなると思う。
周りの人が助けてくれることもあるけど、ふと、自分がどこにいるのかも、何をしているのかもわからなくなっちゃうんだと思うよ。
もし、相手役が察することができたら、カバーできたりするけどね。
でも最後は、自身が乗り越えなくちゃいけない。一人のプロの舞台俳優として。
だから、それを乗り越えた後、舞台に立った七生さんは、いつもより鬼気迫る演技をしたんじゃないかな。
6.手前の美しさを知ることを芝居という。だからお前は役者に向いているんだ。(巌裕次郎 アクタージュ5巻 P114)
これはおそらく、表面的な美しさじゃないんですよ。
女性や男性でも、自分の魅せ方ってあるじゃないですか。
自分の武器は何なのか。芝居をすることで自分を魅力的に魅せることができるという話だと思う。
一方で、初めから自らが美しいと思っている人は、「醜く泣いてみろ」と言われたら、できないかもしれない。
表面的な美意識に囚われているから。
でも、そう思っていなかった人が、役に入り切った時には、内面も含めて美しく魅力的な瞬間が来るんだよね。
巌さんが言っているのはそういうことじゃないかな。
人から見て、美しさを感じる役者さんはいいよね。
美しさっていうのは表面的なものじゃなくて、内面を含めて、「この人を見たい、知りたい」って思わせる魅力。そういうものが美しさかな。
それが芝居に現れるんだと思う。
7.なんて簡素な舞台だ。椅子しか置いてないじゃないか(烏山 武光 アクタージュ5巻 P137)
舞台がものすごく簡素なのですが、マイムだけで、みんなの心に銀河鉄道を作らせたんですよね。
私たち役者は頑張ってそう見えるように演じますね。
おそらく、そこまでの舞台上での嘘の積み上げがあるから、銀河鉄道が見えるようになったんだと思う。
急に見えるようにはならなくて、最初は全然信じられてなくて。でも、だんだんと芝居に引っ張られて見えるようになっていくんだよね。
観客が、舞台上の役者のやることを信じられるようになったからだと思います。
その役者さんのやる演技を、嘘も含めて信じる。そうすると、もう何をやっても真実になるんですよね。
8.なんだ、この、自分だけ服を着ているような、情けなさは(星アキラ アクタージュ5巻 P182)
形だけの演技になりつつあるアキラくん…
アキラくんの演技は、「技術」だからね。感情ではなく、パターンとして演じている。
技術にとらわれすぎてしまったんだと思う。ただ、役にもよるけど、これが必ずしも間違いというわけじゃないんですよ。
お客さんからみて、「うまいなあ」と思わせる見せ方もありですからね。ただ、感動させるには技術だけではなかったりします。
あと、「今日はやり過ごして」とか、それやっちゃうと、今日の客はどうなるんだって。
今日の観客の方もお金払ってきてくれているわけだからね。どんな形になろうとも、今日はいいやって捨てちゃったらダメだよね。それは役者に限らず、仕事としても。
舞台は生ものだから、進化もすれば、衰えることもあるかもしれない。でもその中でも、全力を尽くす姿勢は重要だよね。
昔は、自分がしゃべることが芸だったんですよ。この「二歩前に出て天を仰ぐように・・・」みたいなスタイルは、大昔の新劇のスタイルに近いよね。その頃は、この星君の方法もありだった。
でも今の演劇は、相手のセリフを聞いて、自分の気持ちがどう動くかなんですね。
もちろん技術でカバーできることもあるので、星くんのやり方を一概には否定できないんだよね。作中の千世子さんのように見せ方が異常にうまい人もいるし。
技術でいうと、興奮すると人間は胸式呼吸になる。だから胸式呼吸でセリフを言うことで、興奮を表現する、といった技術もあるね。
でも、夜凪さん達に言われたことで、星君は自分の空虚さを自覚したんだと思う。
正しさを求めることに意味がないことに。
舞台は、相手とどういう関係でやるのかが重要だから、彼のように技術だけでやるのも悪いとは言えないけど、見てて面白くなくなってしまう可能性もあるし、やってて辛くなる可能性もある。
回想を見る限り、星くん自身も演じていて辛かったんじゃないかな。
ただし、感情過多も問題だけどね。
俳優の人が自己陶酔というくらい、内面に入りこみすぎると、周りは引いてしまうんだよね。
昔、「三人姉妹」という戯曲の公演を見たことがあって、
そこに登場する三人の姉妹は没落していく中で、「モスクワへ!!」って憧れを口にするんだ。
最後、三人姉妹の一人が涙ボロボロ流して「モスクワへ!!」っていうんです。
その不自然なまでの涙を見て、僕は気持ちが引いてしまった。
役者が自分の感情に酔っているのを見せてしまうと、お客さんは白けるんだよね。
だから、千世子さんが呪縛と言っている「どうしたいか」より「どうあるべきか」を優先してしまう、という意識。この「どうしたいか」も「どうあるべきか」も両方とも、ものすごく大事なんだよ。
どれだけ自分が内面の感情を作って、必死にやってても、お客さんに伝わらないと意味ないし。そういう意味で客観性は重要。いい俳優さんは「どうしたいか」「どうあるべきか」の両方を深く深く考えていると思うよ。
どれだけ気持ちが激しく動いても、涙が出ても、セリフはきっちりしていかなきゃいけない。
名優は、夢中でセリフを言いながら、相手にどう届いているかを冷静に考えて見つめる目を持っているんですよね。
アクタージュ4巻での、「深く役をつかんで、丁寧に伝えてくれる芝居」だね
9.”出会い”と”別れ”をありがとう。俺はあんたの死を喰らって、より高みへ至る。(明神 阿良也 アクタージュ6巻 P82)
「死さえ喰らう」という経験って、やっぱり演劇において重要なんですね・・・。
経験を糧にするのは、ものすごく大事だと思う。
涙を流すのにも、その手掛かりとして、自分の経験を使うのはすごく大切。経験が多いと、できることは増える。でも、若くてもすさまじい感性を持つ人は多いよ。
それが天才と呼ばれる人達だね。
経験を糧というと、昔、平幹二朗さんが、王女メディアを演じた時は、凄まじかった。
プライベートで、二度と実の子供に会えないという経験と、実の子殺しをしたメディアがリンクしたんじゃないかな。
子供に二度と会えない苦しさが、役にものすごく出ていた。
「王女メディア」子殺しの時、子に対する思いを凄まじい迫力で演じていたよ。あれは本当に、芝居を超えた芝居だった・・・。
10.これが憑依型カメレオン俳優 明神阿良也。不幸も幸福も、すべて自分の血肉とする怪物。(百城千世子 アクタージュ6巻 P86)
どんな人間にもなれる、憑依型カメレオン俳優、阿良也。
実は、ちょっと前の日本では、「何でもできる人って、スターにならない。」そういう風に言う人はいました。
一つのことに特化した人は、その部分しかピースがはまらない。
でも、何でもできる人って、「こっちの役もいいけど、やる人いないから、あっちの役をやって頂戴」といったように、役が固定しなくなってくるんです。すると、一番似合う役よりも代替の役になって損しやすいんですよね。
だから、以前の日本では、娘役をやったらずっと娘役だったり、アイドルだったら、ずっとアイドルでそのイメージを壊さないようにやってたんです。
でも、海外だと、名女優のエリザベス テイラーさんなんかは、絶世の美女なのに、ほかの役では老婆の役をやったり、悲惨な役をやったりしました。
今の日本も、だんだん、いろいろな役をやろうっていう流れに代わってきています。ただやはり、役のイメージに縛られることがあります
例えば、名優、渥美清さんは、「寅さん」という役のイメージがありました。だから他の役をやっても、寅さんのイメージで固定しちゃう。お客さんからも、そのイメージでやってほしいという期待があるんです。
お客さんのほうで許してもらえないので、ほかの役をやってもやりづらかったりします。
吉永小百合さん、石原裕次郎さん然り、どんな役をやっても、その人でいいんだよね。本当のスターって、一つの色があればいい。
普通は、自分自身が役に近づくんだけど、そういう人は逆に役が自分のほうに来ればいいんだよね。
全く違ったら、「これ石原裕次郎じゃないよ」ってなっちゃうんだよね。スターは何やってもスターであるのがいい。
それが生き方の一つだと思う。
11.嘘吐きだらけのこの世界で、嘘を吐かない覚悟をした者を役者という。(巌 裕次郎 アクタージュ6巻 P120)
世の中を滑稽なものとして見てる阿良也に放つ、巌さんの言葉ですね。
お芝居の感情って真実なんですよ。日常生活って、みんな感情をそこまで出さないでしょう。一種の嘘つきみたいなんです。
だから、巌さんが、日常を嘘つきと言っているのも、うなづけます。一方で、お芝居の感情の中に、真実があるんです。
お芝居はフィクションかもしれないけど、役として出す、怒り、悲しみ、喜びの感情は、間違いなく真実なんですよ。
演じるときは、本当に心からそう思って言葉や動作が出てくるから。だからお芝居の中のセリフ一つとっても、そこに込められた感情は、真実なんです。
日常生活だと、そこまで言ってしまったら人と衝突してしまって、うまくいかないことがある。だから日常の言葉こそが、嘘だらけ。
巌さんの言葉はそういった意味なんじゃないかな。
12.観客を魅了する芝居を超えた芝居。それと引き換えにあなたはその芝居から帰ってこれない。(星アリサ アクタージュ6巻 P146)
阿良也が芝居に飲み込まれてしまいました…。
芝居に飲み込まれたというと、ダニエル・デイ=ルイスというイギリスの名優がいるのですが、昔、ナショナルシアターでハムレットを演じたときに、舞台の途中で降りて、そのまま舞台に戻ることがなかったんですよ。
真偽はわからないけど、ハムレットって、亡霊の父が出て来るのですが、その亡霊の父に引きずられていってしまったのかもしれません。
いい感性を持った役者さんは、現実と芝居を分けないと思うんですよ。
だから、阿良也君のように現実に引きずられてしまって、飲み込まれるというのはありうると思います。
そして、そのショックの大きさが、自分の中の感情を制御できないくらいに大きくなったのかもしれない。天才的な感受性をもっているからこそかもしれません。
亡くなったヒースレジャーも、めちゃくちゃすごい感性があって、ジョーカーという狂気を表現した結果、すっと現実とも芝居とも区別がつかないところに入ってしまったのかなって。
そういう天才は、僕みたいな俳優と比べようがないほどのすごい感性をもっているんだと思う。
その感性の鋭さゆえに、ふと現実と芝居の境目が分からなくなって、飲み込まれてしまうんじゃないかな。
名優も、私生活や家庭とかを背負いながら舞台をやっているわけですからね。
そして、戻ってこれないから役者を引退するんじゃないかな。
一方で、さっき言ったように、名優の資質として、相手がいて、そのセリフを聞きながら、夢中で演じていて、その後ろで、ものすごい冷静な自分が「今の芝居はどう見えているか」と客観視しているわけです。
感情を全力で込めながら、「自分がどういう風に見えているのか」「どういう言い方をしているのか」を客観的にわかっているんだよね。
それは、例えば位置取りや、立ち位置だったり。
阿良也君は、そういった冷静な自分も含めて感情に飲み込まれてしまって、訳が分からなくなるんじゃないかな。
清水邦夫さんの作品で「タンゴ・冬の終わりに」というのがあるんですが、そこに清村盛ってという人物がいるんです。
俳優を引退した後に、現実と役の区別がつかなくなってきて、だんだん狂っていくんだよね。清村盛が日常生活を送っているときに浮かぶ言葉が、役者として覚えていたセリフなんだよね。
ボクサーのパンチドランカーのようにだんだん廃人になっていく感じ。役者としては本望かもしれないけど、人としての幸せとはいいがたいよね。
星アリサさんが危惧していた、役者が不幸というのはこういうことかもしれない。
役者としては本望かもしれないけど、人としての幸せがつかめずに、だんだんと廃人になっていく。
それが「戻ってこれない」ことなのかな。
13.そう、俺たちは、たとえ死んでも一人にはなれない。その幸福に気づくことを芝居という(巌 裕次郎 アクタージュ6巻 P163)
夜凪景と巌さんの回想に出てくる最後の言葉です。
この言葉、私、蜷川さんが亡くなった後、いつも心の中に蜷川さんが居るような気がするんですよ。
亡くなる前、ずっと言っていた「お前それでいいの?」って言葉、今でも自分が舞台に立つたびに言ってくれてる気がします。
今まで言われていた言葉が、なんとなく聞こえる気がするんですよね。
下手な芝居したときに「お前、本当にそれでいいのか?」
ちょっとうまくいったときに「お前、調子に乗るんじゃないぞ」
だから亡くなってから、なんとなく心の中に住んでいるような気がします。
僕も毎日あるよ。
シナリオクラブで演出してるときは毎日ある。
蜷川さん自身が、自己チェックをすごくよくやってた人でしたからね。
稽古場でも「これ遺言と思って聞いてくれよ」って言ってた時がありました。
亡くなって、風化していくのではなく、永遠に叱咤激励されているような感じですね。
姿かたちはなくなってしまっても、生き続けているような。
「あの大鴉、さえも」という作品で、3人の人間が見えないガラスを持ち続けているという芝居があるんです。
他の人からみたら、見えないものかもしれないけど、3人にとってのガラスは、人それぞれの心の中にあるもので、守り続けたいものであるんです。
僕にとっては、蜷川さんに言われた言葉、もらった技術で、それが財産であり、「あの大鴉、さえも」のガラスになるのかなと思っています。
14.公演後の劇団天球について考えてみる
演出家がいなくなった劇団天球を、皆さんだったらどう考えますか?
やっぱり、演出家不在ってのは大変だよね。
みんなが認める演出家の存在って、すごく重要だからね。
演出家が亡くなるのは、社長が亡くなる、みたいなものですね。
みんな演出家に集まってくるので、それがなくなると、バラバラにはなっちゃいますね。
そうだねえ。
劇団って、その人がいたからこそ、その劇団でもあるよね。
その人がいた空気の中で作ったから、その作品ができたっていうのがあるね。
「その人がこう動いたから」って想像して作ったとき、それはまた違うものになるんじゃないかな。
全く新しい道を歩んでいくならアリかもしれない。
15.あとがき
アクタージュ「舞台俳優編」6巻にて完結しました!!
「銀河鉄道の夜」から、一躍、時の人となった夜凪景。
この後どうなっていくのか。この後の展開も目が離せません!!
新章の展開が楽しみです!!
アクタージュ1~6巻、Kindle版もでています!!
そしてなんと、スタジオ大黒天から、一話が公開されています!!
天才だけどピーキーすぎる女子高生が女優として成長する話 【1】 pic.twitter.com/0u0TuNp4Ll
— アクタージュ act-age公式【スタジオ大黒天】 (@ST_daikokuten) 2019年5月2日
興味がある方は、是非とも一話から見てください!!