少ないチャンスを生かせず、劇場に観にいくことが叶わなかったので、放送(を録画してもらったもの)を見ての感想です。
ですが、放送を見てなおさら、生で観たかったー!と思ってしまいました。老マルティンを演じた外山誠二さんが本当にかっこよくて!
同じピーター・シェーファーの戯曲では、「アマデウス」の方が有名ですかね。「ピサロ」と聞いて、まず画家の方を思い浮かべてしまいましたが、でも実際「ピサロ」と検索すると、こちらの実在のスペインの軍人の方が先に出てきました。なんなら、インカ帝国を滅ぼした人として超有名な方でした。実在したピサロは、スペインでは英雄のようですね。私生児として生まれ育ち、読み書きはできなかったが、兵士として、のし上がっていったのは史実のよう。大量虐殺や、インカ皇帝の処刑も史実。
そこに、ドラマを加えてエンターテインメントに仕上げる。ということはアレだ。歴史大河ドラマ!
まず、観る前から観たい!と思えた要素は、外山誠二さん出演はもちろんですが、世界のケン・ワタナベが主役というところ。彼はかつて同じ演目の初演にも出演していて、その時はインカ皇帝アタウアルパで、その時のピサロ役は名優・山崎努さんだったという因縁。
それから、マルティンというストーリーテラーが、若いマルティンを大鶴佐助さん(唐十郎大先生のご子息)が演じ、外山さんが老マルティンという私得の豪華リレー。
また出演者が、ミュージカル、新劇、小劇場、アングラ、バレエ、元駅伝ランナーと多彩! 宣伝時のチラシが、全員泥だらけの迫力顔だったのも惹かれました。
物語の大きな構図は、征服者スペイン 対 先住民インカ帝国。それは、キリスト教 対 太陽神信仰 という思想の衝突でもありました。キリスト教布教という大義のもと、侵攻し、略奪していくスペイン軍。その時のインカ帝国は、太陽とともに大自然の一部として暮らしていて、何の疑問もなければ、何の不自由もない生活をしていたのでした。
キリスト教を布教するんだ!という信念を持つ若い宣教師が、インカ皇帝アタウアルパに対してこう訴えるシーンがあります。この国の人々は人間というよりは風物。まるで木のようだと。この国では飢える権利さえ奪われている。飢えること=欠乏 は権利。欠乏なくしては愛は生まれない。太陽はただの燃える球体にすぎないのだ、と言って「愛」の大切さを説くのです。
「人が人として生きることの素晴らしさ」と、「自然の一部として存在すること」という、「生」や「個」の捉え方が異なる文明の二人の代表が、渡辺謙さん演じるピサロと、宮沢氷魚さん演じるアタウアルパ。ですが一見、理解し合えなさそう。がしかし、ピサロを熱烈に尊敬する若きマルティン(大鶴佐助さん、のちに外山誠二さん)が、ピサロのために猛烈にインカの言葉を理解し、優秀すぎる通訳になって、お互いの理解に一役買ってしまったことが、思えば悲劇の始まり。
ピサロは、一代で這い上がってきた男。権力者からは少々疎まれているものの、周囲の人々を引き込む強いカリスマ性を持つ。少数の部隊で大国に挑む戦いにも怯まない。前半は、そんな男が憧れるヒーロー的な存在で、渡辺謙さんギラギラした光を放っています。渡辺謙さんと言えば、ギラギラですよね。
一方、アタウアルパは、太陽の子として生まれ、王として君臨、周りの人間はすべて彼にかしずく。まばゆい金色に包まれた登場シーンは、見ている者の背筋を伸ばしてしまうほどに、まさに神々しい。キラッキラ。宮沢氷魚さんはモデルもやっているだけあって、衣裳やメイクやヘアスタイルの影響もあると思いますが、何と言っても美しい。眼福。階段舞台になっていましたが、歩くのも、スッと腰掛けるのも美しい。崇高で純粋、そして孤独な王。
そんな二人は、有能な通訳を介してだんだん理解し合うことに。この対照的な二人を、孤独というわずかな共通点が、距離を縮めていったのかもしれません。60歳を超えていたピサロは、身体もあちこちガタが来ていて、最後の戦のつもりでした。でも、このキラッキラした若者と交流するにつれ、友情のようなものが芽生え、息子のようにも思えてきます。
失いたくないものができてしまったピサロは、生まれて初めて心の弱みを持つことになります。しかし、騙し討ちに、虐殺、略奪と、インカを踏みつけにしているスペイン軍にとって、王の存在は、反乱の火種となりうるため、王を処刑するしかありません。もう一触即発、爆発寸前。一刻の猶予もない。その事実に動揺し、葛藤するピサロ…。
とうとう王が処刑された日、アタウアルパを腕に抱き、ピサロは人生で初めての涙を流します。悲しみと絶望の闇の底に沈めた恨み言を言いながら…。その背中は、とても小さくなってみえます。
老マルティンの外山さんは、そんなピサロたちを見下ろしながら、その後のインカ、スペイン、そしてピサロが辿った顚末を語ります。それはそれは悲しい目で。ピサロはこの後、処刑されることになりますが、もうこの日死んだも同然だったと。
希望に燃えて海を渡り、敬愛するピサロに仕えて、何とか役に立ちたいと必死だった少年は、この世にエルドラドなんてないことを、突きつけられてしまいました。でも、希望も絶望も、愛も憎しみも、感情のすべてを抱いたのは、ピサロが生涯唯一の存在だったから。だから語らずにはいられなかったマルティン。マルティンしか知らない、英雄伝説の裏側のピサロ。だから序盤から悲しみをたたえた演技だったんですね。最後にはもうマルティンの気持ちにシンクロするしかなく、胸が痛くなりました。
そんな物語の中心にいる3人を取り巻くのは、チラシにもいた多彩な面々。一人ひとりに役割があって、ピサロ、スペイン、アタウアルパ、インカを立体的に浮かび上がらせてくれます。ダンスや儀式的な踊りがよいメリハリとなって、作品を押し上げている印象もありました。階段の後ろにあるスクリーンに、プロジェクションマッピングのように、いろいろな芸術的な絵柄が映し出されるのも好きでした。これだと場面転換の時間がかなり短縮できますよね。
ちなみに、ピーター・シェーファーは上演にあたり、この「ピサロ」のセットから音楽から、その使い方まで細かい指示を出しています。セクションの区切りも継続性を持たせるようにとか、歌は、「囁くように嘆くように、また肺腑を衝く叫びの如く、遠吠えの如く歌われる」とか。とても理論的で、演劇を総合芸術と考える演劇大国イギリスの人らしい、のかも。演出をしたのは、元バレエダンサーで振付家でもあるウィル・タケット氏。空間の使い方も確かに上手、と思いましたが、でも俳優さんたちの使い方上手!キャスティング最高!だって、みんなステキ!と思えましたから。これなら毎日通っても、今日は誰目線で見ようとか、きっと飽きないだろうなあと思いました。
積み重ねた努力が、観客を守るためとはいえ削られて、それでも舞台に上げられて、録画もできて、放映もされて、日の目を見ることができなかった幾多の舞台と比べたらましだったかもしれませんが、やはり関係者は手応えも感じていただろうし、悔しかったと思います。
どうかまた同じメンバーで再演してください!
必ず観に行きますので!!!